立春に「小商いのすすめ」を読んで思うこと

先日、神社で節分の豆まきの奉仕(お手伝い)をさせて頂きました。
ちょうど日曜日とも重なり、子供たちをはじめ多くの方で賑わっていました。
少しでも地域の行事のお役に立てることは、春の訪れとともに心を暖かくしますね。
 
そのようなタイミングで、大学院の教授にお勧めされた本を読みました。
『小商いのすすめ』(平川克美、ミシマ社)という本です。
別に規模の小さい、スモールビジネスについて書かれた実用書ではありません。
日本経済がもはや拡大均衡を目指せるような状態ではない中、いたずらに拡大をさけんで格差を生むよりは、身の丈にあった縮小均衡でよい。
その際の考え方のベースとなるのが「小商いの哲学」なのではないか、といった趣旨の、いわば生き方について書かれた本と言えるのでしょうか。
 
本の中には、「小商い」とは「いま・ここ」にある自分に対して責任を持つ生き方、とありました。
生まれた土地や育った環境は、自分自身が選んだものではなく、偶然の産物ではあるけれど、それでも「いま・ここ」に責任を持つことだと。
例えば無償の地域活動や、村上春樹がダンス・ダンス・ダンスの中で「文化的雪かき」と書いた、誰もやりたがらないけど誰かがやらなければいけないことがそれに当たる、と。
 
私自身も、そして周囲で町や神社の活動をお手伝いしている人間も物好きばかりで、むしろやりたくってお手伝いしていますが、それは損得勘定からではありません。
私たちのように、むしろ合理主義的には損な役回りをする人があって、はじめて地域という「場」に血が通い、共同体が息を吹き返すことができる。
責任がないことに責任を持つときに、はじめて「いま・ここ」に生きていることの意味が生まれてくる、とも本にはありました。
 
実は、たま~に「俺なんでこんなことやってんだろ」と思うときがあったりするのですが、
私は自然に「いま・ここ」に生きている意味をそこに見出していたのかもしれません。
 
自分が「いま・ここ」にいることの偶然を必然に変える、という本の内容は腑に落ちるものであり、自分の立ち位置を再確認することができました。
私にとっては、地域の中で脈々と受け継がれてきたことを、しっかりと引き継いでいく、暗黙知を伝承させることが必然なのだと思います。
 
さて、
 
一方で、互助的な組織は、知らず知らずにムラ社会を作ってしまうことも事実です。
意識して、そうすまいとしていても、なる。
気がつけば、周りの仲間も40代がほとんど。
いつの間にか、大局を失って、筋(スジ)を通すことにこだわっていないか。
筋にこだわっていなくとも、なんか面倒臭そうと思われて、人々を遠ざけていないか。
 
歴史や伝統、暗黙知を引き継いでいくことは重要で、それが私たちの必然だと思っています。
しかし、今の時代においては柔軟に筋を通すこともまた必要。
歴史と、過去のわだかまりを混同してしまうことも、これまた違う。
 
節分の翌日、立春を迎え、春の足音を聞けば、下町では5月のお祭りに向けてそわそわしはじめます。
お祭りの場面では、その場の空気そのものが、そこだけ切り取ったように一体になる瞬間があります。
でも、それはほんとうに一瞬で、その瞬間に立ち会えた者だけが感じ取れるものであり、また、その瞬間に立ち会った者の気持ちがひとつでないと現れない感覚です。
 
不協和音があっては現れない一体感。
 
その瞬間が現れるように、地域に関わる者すべてが、自分たちの「いま・ここ」に対する責任を思い出す必要がある。
そんなことを考えた立春でした。